佐藤康行の5年前の「真我真理研究会」

※この内容は、研究所が立ち上がる前の研究員個人ブログのアーカイブです

佐藤康行が約5年前、毎日「真我真理研究会」を無料で行っていたのはご存知ですか?
約1年間に渡り、新宿事務所の5階にて、毎日行われていました。

私は当時、「真我開発講座」を受講して間もなくの時で、佐藤康行に会えるという事で、喜こび勇んで参加した事を覚えています。

その研究会で行われていたこと、また、佐藤から語られる言葉は、その当時、宗教経験のある私にとっては、宗教とは全く違う、やってきた仕事とも違う、今までの人生の中で聞いたこともないような佐藤の話しの内容に、驚愕したことを覚えています。

この1年が、私の真我の追及の原点になっていると思っています。

今から思えば、佐藤は毎日、1日も休ます「真我真理研究会」をしてくれていましたが、それがどれほどの大きなものであったかという事を、最近になってつくづく思う毎日です。

このブログをお読みいただいている皆さんの中にも、当時、ご参加されていた方もいらっしゃるのではないでしょうか?
その当時の思い出を、今日はお話ししたいと思っています。

1年間の中には、私の頭がひっくり返るような、いろんな事をがありました。

まずは「まな板の鯉」」というものがありました。
これは、「今日のまな板の鯉の希望者?」というと、手をあげた人の中から選ばれた人が、まさに、「まな板の鯉」状態で、佐藤と一問一答をするというものです。

これには、当時の私はおったまげました。

勿論、何も隠さずお話しされる人にも驚きましたが、その出来事に対する佐藤の見え方や言葉に、ただただ溜息しかでませんでした。
時には、お聞きしながら涙を流したことも覚えています。

あそこで、私は本当に救われたと思えたのでした。

一番印象的な話しは、幼児期の時に父親に殺されかけた方の話でした。
人間知ではどうしようもないこと。
その傷はどうしようもないことを、佐藤は「愛」として、その方に語りかけたのです。

佐藤は全く揺るぎのない、一部の疑いもなく、その方に凄いエネルギーで父親の愛を話したその姿に感動し、私は号泣したことを覚えています。
その姿は、私にとって忘れられない出来事となっています。

その後、その方は父親と完全に和解をされ、父親の死をみとられています。

こんな風に、人は救われていくのだ・・・と、宗教とは全く違う光景に、心から感動致しました。

そして、佐藤という人物に、強く興味を持ちました。

しかし、そこまでの光景を見ながら、私は宗教での洗脳を取り去れず、この心の癖でその後も苦しむことになるのです。
本当にわかっているのに、体が私の本当の意志とは別に、相変わらずの言葉や行動になってしまって、その自分の自作自演の世界に勝手に苦しんできたのです。

それほど、宗教というもののやっかいさを、私はつくづく思い知らされることになります。

しかし、佐藤という人物に出会わなければ、それさえ気づかづに人生を終えてたことを思うと、本当にこのご縁に心から感謝の気持ちが出てきます。
佐藤康行の毎日の「真我真理研究会」は、当時、出たい人は誰でも出られるというものでした。
未受講生の方も、受講生の方も、スタッフの方も、同じように参加していました。

そして、新宿事務所の5階は、毎日、ぎゅうぎゅう詰めで座って、毎日盛り上がっていました。
玄関に靴がおけなくて、廊下の厚紙の上に、靴がズラ―と並んでいたのを覚えています。

佐藤は「皆さんを研究材料としてやらせてもらうので、どんどん発表して下さい」と言い、その言葉通り、毎日のように新しいワークが出てきていて、それを毎日私達は体験していたのです。
未受講生も受講生もスタッフも関係なく、必死でみんなで追及していました。

その、毎日出てくるワークを、当時の5階の担当スタッフが、音声に取り、必死でノートに書き留めていたものが、今日の「真我体道」となって生きています。

佐藤から新しいワークが、まるで湯水が溢れるが如く、次から次へとどんどん編み出され、多分、その当時で数千という数字のワークが編み出されていたのではないかと思っています。

当初、私は「体道」というものが苦手で、「なんで心に思ってもいないことをするのか・・・?」と、その意味も威力もわからないでいました。
何か、演技でもしているようで、とても苦手意識がありました。

当時の私は、長い宗教生活の中、「ゴミ」を出す事が出来ず、強い蓋で閉じ込めていたせいか、自分自身、ゴミの存在にも気づかづにいました。

ある日、強烈な経験をしました。
ワークの中で、すっかり忘れていたことを思い出したのです。
幼いころの経験です。

愛人のもとに通っていた父が、久しぶりに帰ってきた時、母を思い、純粋で潔癖な高校生だった姉が、刃物を持って向かっていったのです。
真っ赤な血がパッと飛び、幼かった私は、恐ろしくて泣きじゃくっていました。

幸い大した怪我もなく、事なきをえたのですが・・・。
しかし、思いもかけず、私の心の奥底に、深い記憶になっていたのです。

父も、この事は深く気にしていたようで、後年、姉が病室に来ると、いつも大粒の涙を流していました
父にとって、姉は特別だったのでしょう。
そして、姉にとっても父は特別だったに違いありません。

始めて、ワークを通して、この事を口に出し、私自身も深く傷ついていたことを知りました。

佐藤に「私はどうしたらいいのでしょうか?」と、質問したら、

佐藤は「これは、御父さんの問題でもなく、お姉さんの問題でもないです。そう思っている、そう見えているあなたの問題なのです」
と言われ、当時の私はあっけにとられ、、また、「私の問題」という意味がはっきりわからなかったことを覚えています。

しかし、当時、謎めいて聞こえた佐藤のこの言葉に、私は深い感銘を覚え、そこに何かがあると思えて、さらにさらに追及することに決意したのです。



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