佐藤康行「聖霊降臨」

※この内容は、研究所が立ち上がる前の研究員個人ブログのアーカイブです

キリストが亡くなった後、「キリスト教」を誕生させた奇跡と言われている「聖霊降臨」。
当時の弟子たちは、迫害を恐れ、自分がキリストの弟子であった事を隠していました。

しかし、キリストの死後、50日目に現れたという「聖霊降臨」。
この奇跡により、弟子たちがキリストの言葉を広め、「キリスト教」が誕生したと言われています。

これを、何度でも、どこでも、いつでも繰り返し出来るとしたら、これは現代の奇跡だと思いませんか?

先日、「ソウルメイトフォロー」(メンタルパワーズ主催)で、10年前にたった1回だけ受講しただけの方が、「聖霊降臨」(内観光受)を体験された話には少し触れました。

「佐藤康行研究会」として、今日はこの話を、もう一歩踏み込んで書かせて頂きたいと思っています。

10年前にたった1回だけの経験。
それをたった5分で蘇らせる事・・・・。
そんな事、出来ると思われますか?

佐藤が「一度開いた真我は戻りません」と、常日頃言いますが、その時の光景は、佐藤の言う事をまさに実証していました。

その方は、「聖霊降臨」は始めての経験でした。
そういうものがある事さえ、ご存じ無いようでした。

佐藤が「10年前に1回真我を開いた経験をされたのですね。では、今からその感覚を蘇らせてみましょう」と言いました。

佐藤の二言、三言の誘導の言葉で、「聖霊降臨」は始まりました。
佐藤がなにか、特別な事をやったわけではありません。

それなのに、その方は深く涙されていました。
佐藤に感想を聞かれ「勿論、講座は2日間でいろいろな事がありましたから、この短い時間では講座での出来事全ては無理ですが、確かにあのときの感覚が戻ってきて、胸が熱くなり、何故か涙が出てきました」と、感想を述べていらっしゃいました。
そして、感想を述べられるその声は、先程の声とは別人の声になり、声が透き通っていたのです。

私はその時、心から驚きました!
鳥肌が立つというか・・・、「やっぱりそうか・・・・」というか・・・。
何とも言えない感動を覚えました。

考えても見て下さい!
10年前にたった一度だけの経験です。
そのたった一度だけの経験で、いきなりその感覚に戻れることなんてありえないことだと思いませんか?

私達は人生で感動した事はあったでしょう。
でも、その感動を10年後に、いきなり蘇らせる事は出来るでしょうか?
感動は10年もしたら良き思い出です。

しかし、「真我を開く」という事は、ただの「感動」とは全く違う、全くの別物です。
その時の感覚を再現できる・・・・と、いう事は、本当はずっと知っていたのだ!
10年前の出来事ではなく、その方にとっては、今、この瞬間の出来事なのだ・・・・!

そう思うと、私は感動で一杯になるのです。
「やっぱりそうか・・・!」という思いで、感動が溢れるのです。

「人間というものは、神を感じた瞬間というものは、絶対に忘れることなどないのだ。
やっぱり、人間の本質は神そのもの、真我そのものなんだ」

「だから、本物というものは、誰かに教わらなくても、自分自身が知っている。それこそが本物。
その本物を体験したら、それは、絶対に忘れることなど無いのだ」

その人間の素晴らしさに、改めて感動し、さらに確信に至ったのです

「聖霊降臨(内観光受)」については、四国の八木和彦さんという方が、明快にブログに書かれています。

八木さんは、かつてキリスト教を深く学ばれ、その後「真我開発講座」受講後、佐藤康行の「内観光受」を体験されて、その内容のあまりの凄さに驚かれて、佐藤に手紙を書かれた方です。
どこがどう凄いのか?

八木さんのブログをお読みいただけると、お分かりになるのではないと思います。

↓ ↓ ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/youseisya/1458804.html

八木さんも佐藤康行との縁によって、大きく人生を変化されたお一人です。
公立の美術教師をなさっていた八木さんは、本当の使命に出会われ、画家として、「東京の紀伊國屋で個展を開く」と、とてつもない夢を描かれ、そしてその後、事実、新宿の紀伊國屋で個展を開かれました。

まさに、真我の生き証人のような方です。

私は、キリスト教を学んだ事はありません。
かつて、所属していた宗教では、教祖がキリストをチャネリングして、「キリストの霊言」なるものを書籍にしていました。
まことに怪しいものです。

当時は洗脳されていたので、教祖の言っているキリスト、書いているキリストが真実のキリストだと思っていました。
しかし、キリストを深く学んでいた友人から「あなたの言う事はおかしいよ・・・・。」と言われた事が、何故か記憶に残っています。
多分、おかしなことを言っていたのだと思います。

教祖自身も「自分は○○の生まれ変わり」と称し、独断的に、他の有名な人の事を、あれこれと足を引っ張るような事を言っていました。

その経験から、私は「自分は○○の生まれ変わり・・」という人を、基本的にはあまり信用できません。
特に、心の事を説く人が、そういった証明できない主観的な話をする事は、信用できないばかりか、大変危険な事ではないかとさえ思っています。

私の知る限り、イエスキリストほど厳しい人生を歩んだ方も少ないのではないかと思います。
しかし、苦難と思える人生が、神の愛を伝える基となっています。

世の偉大と言われる人のほとんどは、苦難の道を歩まれます。
しかし、その苦難も、全て、人が本当の自分に出会うための、その礎になっています。

そういった意味でも、佐藤康行は例外ではないと、私は思っています。

佐藤の人生を見る限り、聞く限り、中学の時に母親を亡くし、実家は火事になり、また、脳溢血で倒れるなど、たくさんの苦難とも思える人生です。
しかし、佐藤は「真我寂光」の世界、闇も光と言います。

「そのおかげで、今の自分がある」そう言います。

闇も光・・・。
真我寂光の世界。

いかなる不幸と思える出来事も、とても乗り越えられない苦難と思える事も、全て光だった。
だからこそ、人は、どのような状況からも、生き生きと生きて行ける。

事実、その体感した人が、10万人以上います。
この事実実証。

これぞまさに奇跡。
この奇跡を実証出来る事こそ、まさに佐藤康行ならではだと、私は思っています。
それが、佐藤康行の佐藤康行たるゆえんだと思っています。

 

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