Sという男の体験談「本当の人生」

※この内容は、研究所が立ち上がる前の研究員個人ブログのアーカイブです

S氏は、北海道の土木のゼネコンとして、全国を精力的に動いていました。
仕事、出張、接待、打ち合わせ・・・・と、毎日を忙しく過ごしていました。
決して家庭的とはいえませんが、それなりに幸せな生活をしていました。

父親が亡くなり、その後、母親も心配になったころ、母を自宅に引きとりました。
しかし、母を引き取ったとはいえ、彼は相変わらず忙しい毎日でした。

家庭のことを振り返る暇がないまま、母のことは妻に任せっきりにしていました。
彼が気がついた時には、妻がすでに気持ちの上で母を受け入れられなくなっていました。

妻の母に対する態度・・・・。
それは、彼にとっては耐え難いものでした。

それでも彼は、その苦しいであろう母を、いごごちが悪いであろう我が家に置いていくしかありません。
それでも彼は、毎日を忙しくしていました。

働くのが男。
仕事によって、多くのものが犠牲になったとしても、それは仕事を持つ男としては当然だと思っていました。

その後、体調を壊し動けなくなった母を施設に預けました。
そして施設で母は亡くなります。

母亡き後、彼の中には、猛烈に自分に対する怒りが沸いて来ました。
その怒りの刃が、全て、妻に向かいます。

「許せない・・・!何故だ。 何故母をあんな目に合わせたんだ!」
そして、妻との仲は最悪になり、妻を許せない、憎いさえと思いようになりました。

そんな頃、彼は佐藤康行との縁が繋がることとなります。
最初は、佐藤が作ったメソッド「サンタ営業」を、学びに来ました。

しばらくして、サンタ営業を深めるために「真我開発講座」を受講することにし、そして、「真我開発講座」の中で、自分の怒りの心と真正面から向き合うことになりました。
そして、彼は大きく真我に覚醒します。

そこに見えたものは、母の深い深い愛・・・。
そして、妻の愛・・・。

あれほど妻を憎んでいた自分の気持ちが消えています。
一生涯、この憎しみと後悔は消えることがないと思っていた彼の心は、真我に目覚めた瞬間に、全てを愛おしいと思う気持ちに変化していたのでした。

フイルムとスクリーンが同時に消えた瞬間です。

彼は妻と和解・・・・。

そんな時、東北大震災が起きます。
東北の壊滅的な状況・・・・。
そして福島の原発。
そこに住む、母と同じような老人達の苦しみ、辛さ。

彼は、母の供養の意味もこめて決意します。
「母にしてやれなかったこと。それを、今日本で一番苦しんでるこの地の人のために捧げよう!」
「今こそ、俺は悔いのない人生を送る。」

そう、決意したS氏は、勤めていた会社を退職。
退職金を持って、単身、福島で介護の道へと進んでいったのでした。
誰も知り合いのいない福島にひとり立ったS氏・・・・・。
介護の仕事を始めるには素人でした。

介護施設を開設させるまでの数々の困難は、想像以上でした。
国の仕組みの中で出来上っている介護の世界は、今まで民間の会社で努めてきた彼にとって、矛盾ばかりで理解できない世界でした。

福島の地は北海道からやってきた彼に対して、当初、よそ者でした。
どれほど、彼が熱く語ろうが、彼を容易には信用する事はありませんでした。

しかし、彼は諦めるわけにはいきませんでした。
だからこそ、退路を絶って、北海道を後にしてきたのです。
だからこそ、たくさんの思いを北海道に置いて、まっさらな気持ちで福島の地に立ったのです。

いろいろな事はありましたが、とにかく、彼は福島で介護施設をオープンさせました。
綺麗ごとだけではなにひとつ進みませんでした。
汗を流し、涙を流し、歯を食いしばってオープンまでこぎつけました。

その間での出来事。
一つ一つの悔しかった出来事。
有難くて涙が出た出来事。
話せば、何時間もかかるほどの出来事を彼は経験しました。

その都度、彼は佐藤康行のもとに通い、佐藤からの言葉をたくさんもらいました。
その時は、どういう意味なのか分からない言葉もたくさんありました。
どう解釈していいのか、今、なお分かっていない言葉もあります。

しかし、筆舌を尽くすほど困難だと思えた事。
もう、無理だと思えた事。
そこを乗り越えられたのは、佐藤康行の言葉であり、佐藤康行の愛です。

どんな辛い時も、どんな苦しい時も「佐藤先生だけは、判ってくれている・・・・!」
「東京へ行けば、佐藤先生がいる」
それが、彼の支えになっていました。

そして、今、施設のオープンから2周年を迎えようとしています。
北海度を出来てきて、すでに3年になる今、たくさんの事が彼の脳裏に浮かびます。

今なら佐藤康行に言われた言葉の深い意味が、少し、分かったような気がします。
今だからこそ、話せる話もあります。

その中でも、彼にとって、忘れられない佐藤康行の言葉が三つあります。
その佐藤康行の言葉の三つを知るための、彼にとって忘れられない出来事があります。

ずいぶん前置きが長くなりました。
その三つについて、いよいよ話してまいりましょう。

一つ目の佐藤康行の言葉
「考えるな」

S氏は言葉通りに、あれこれと思い悩むことをやめ、今、目の前に起こる出来事だけに集中しました。
介護施設開設の場所も考えて決めず、直感で選びました。

二ヶ所の候補地の中、考えて選べば駅から近い好立地な場所を選んだはずです。
ところが、直観だと、駅から30分ほどのもう一か所の場所がピン!ときました。
迷わず、そこを選んだS氏でした。

選んで決めてから、その場所の周辺の状況を調べました。
調べたら、その場所の周りには、すでに大型の施設が多くありました。
福島でも有数の大型病院もありました。

一瞬、彼は「あっ!まずったかな・・・・」そう思いました。

しかし、彼は考えたり立ち止まったりすることなく、周りの施設にどんどん営業に回りました。
ところが、どこへ行っても断られました。

「あなたのような素人が出来る世界ではない。」
「地元の人じゃないんですよね」
「この世界は、気持ちだけで出来る甘い世界じゃないんですよ。」
そう、冷たく突き放されるのでした。

彼が何をするために北海道から来たのか?
その事を理解してくれる人は、皆無に等しかったのです。
自社のスタッフにさえ、なかなか理解してもらえませんでした。

しかし、後からわかった事です。
彼がピン!と来て選んだ場所は、福島の中でも一番、放射線の量が少ない場所だったのです。
知らないでその場所を選んでいたのでした。

それから、一年たったある日・・・・・。
当初、営業に回って一番厳しい言葉をくれた人が、彼の施設を訪ねてきました。

「一年前は失礼しました・・・。
あんな事を言って、私もずっとその事が気になっていました。

私は仕事上、あなたの施設の前を毎日通ります。
毎晩遅くまで電気がついているのを見て、あー、今日も頑張っているんだな・・・・、そう思って見ていました。

そして、日々あなたの施設の評判がよいのを耳にしています。
私の病院から退院する患者さんを、是非、あなたの施設で面倒を見てもらえませんか?」

そう言われ、それからどんどんその大型病院からの紹介が増えたのです。

佐藤康行から貰った二つ目の言葉は「「丸裸になってもいいという覚悟」でした。

さて、ここまでのS氏ですが、母と妻の関係をどうする事も出来ず、母を施設で亡くした事を悔んだことをきっかけに、「真我開発講座」を受講し真我に覚醒したのでした。
そして、東北大震災をきっかけに、全てを投げ打って単身福島で介護の仕事をするために北海道から福島へ移住。

知り合いもなく始めての仕事である介護の施設を建て、今や、その施設も2周年を迎えようとしています。
福島へ発つときに、佐藤康行からもらった三つの言葉が彼を大きく変えてくれたのでした。

一つ目の佐藤康行の言葉は「考えるな」でした。
その言葉通り、彼はあれこれ考える事をせず、ただ目の前の出来事、今、自分がやらなければならない事に集中しました。

すると、当初、彼に対して「そんな綺麗事だけでは、この仕事はやれませんよ」と言っていた、介護業界の人や周りの人が、とうとう「あなたに協力します」とまでに変化し、彼は地元で協力者を得る事が出来たのでした。

二つ目の言葉「丸裸になってもいいという覚悟」
彼は、当初、自分の退職金は施設の建設に使い、運転資金は地元福島の金融機関から借りる予定でいました。

しかし、福島には知り合いが一人もいません。
金融機関のどこに話しても、お金を貸してもらえませんでした。

そのままの状況で施設はスタートしました。
たちまち、彼の資金は底をつきます。

介護の世界は、先にお金が要ります。
スタッフの給与。
施設の入所に方の食事代。
他に日々に必要なもろもろの金は、先に要ります。

1か月を終え、それを書類にまとめて国に申請し、その後、お金が国から下りてくるという仕組みになっています。
ですから、どうしてもその間の運転資金がいるのです。

たちまち彼の資金は底をつきます。

彼はあの手この手で資金繰りをします。
北海道の自分の家のリフォーム代も、生命保険代もすべて解約し、施設運営に継ぎこみました。
あらゆるものをつぎ込み、まさに、彼は丸裸になりました。

彼の全財産は残りわずか3万円となります。
彼は、これでは明日の入居者の食事の材料をそろえる事さえ出来なくなりました。

彼は「いよいよ『町金』に借りようか・・・・。
しかし、それは後々危ない事になりかねない。
それならいっそ、スタッフに借りるか・・・・・」

そこまで追い込まれてしまいました。

佐藤康行の三つ目の言葉「Sさんが福島に行くのは救ってやるのではなく、救われに行きなさい」
その、言葉とも重なる出来事がその時起きたのでした。
S氏が福島で初めて御世話させていただいた方は、浪江町に暮らしていた90歳過ぎのおばあちゃんでした。
それまで、お嫁さんの介助を受けながら、多少の不自由はありましたが、家で暮らしていました。

ところが、東北大震災の後、突然、目が見えなくなり、口もきけなくなり、寝たっきりで布団から起き上がれなくなってしまったのです。
いわゆる意識障害です。話しかけても全く反応がありません。

介助していたお嫁さんも、体を壊し入院する事になり、意識障害のおばあちゃんを引き受けてくれる施設がなく、困りはてている事を相談され、S氏は即断で預かる事にしたのです。

S氏の施設では、レクレーションの時間には、佐藤康行が開発した「体道」を、施設に来ている老人同士でやります。
「ありがとう・・・・・」「あなたに会えてよかった・・・・」などと言いながら、みんな楽しそうにやっています。

浪江町のおばあちゃんも、そんな皆さんの傍にいます。

勿論、最初は何もできませんでした。
ところが、2か月もすると、しゃべれるようになり歩けるようになっていました。

奇跡です!

あのまま、「意識障害」という事で、寝たきりで放置されていたら、きっと植物人間のように寝たきりになっていたことでしょう。

しかし、そのおばあちゃんが、体道を見たりやったりしているうちに、言葉が話せ、笑い、歩けるようになったのです。
S氏にとっては、この仕事の喜びと、感動と、遣り甲斐を感じた瞬間です。
そして、S氏が救われた瞬間でもあったのです。

佐藤康行が言った事。
「あなたは救いに行くのではなく、Sさん、あなたは救われに行くのですよ」
その言葉が分かった瞬間でもありました。

日本の中で、一番何も持たないおばあちゃん。
家も故郷もなくし、目も口も歩くことも全てを失った90歳過ぎのおばあちゃんが、彼を救ったのでした。

母を亡くして悔いた事。
母の深い愛を感じて、感謝して泣いた事。
恩返しをしようと、この福島へ来た事。

だからこそ、「もう駄目だ・・・」と思える事があっても、どんなに苦しい事があっても、彼の心の中で、浪江町のおばあちゃんの「がんばれ・・・!」という声が響き、ここまで頑張ってこれました。

あれこれの金策も果て、お金に出来るものの全てをお金に換え、何とか施設を維持してきた彼ですが、さすがに万策つきました。
ある木曜日です。

いよいよ彼の全財産は、財布の中の3万円・・・。
明日の食材を買うにも、困っていました。

さすがに、その晩は眠る事が出来ませんでした。
眠れられないひと晩を過ごしたS氏。
金曜日になり、どうするかも考えていませんでした。

朝、一番に電話が鳴りました。
「Sさん、一本入れておきまししたからね。」

「エッ??」
銀行の担当者からの電話でした。

「一本って100万円ですか?」
「はははは・・・。Sさん、まぁ、通帳を見てみてください。」

S氏は通帳を持って銀行に走りました。
通帳には10,000,000という数字が印字されていました。

「あ 、有り難い・・・・・。」

人の温かさ。
浪江町のおばあさんの「がんばれー!」といいう声。
あの世からの母の後押し。
大好きな福島の皆さん。

大きな愛をいっぱい受けて、S氏の大進撃が始まりました。

施設開設から、2年の月日が経ちました。
彼の施設は、あるフランチャイズの施設ですが、全国に80施設あるなかのトップです。
それも、ダントツの1位です。

本部から「Sさん。今月もダントツの1位ですよ。2位とはかなりの差がありますよ」
そんな連絡を貰いました。

経営の方も、順調になり、スタッフへもボーナスを出せるほどになりました。
「さぁー!ここからスタートだ!」

北海道から出てくる時、佐藤康行の講座を受講し、その中で作ったわが社の理念。
「お父さん、お母さん、ありがとうございます。
あなたの喜ぶお顔が、我が社の全てです」


この理念から、一つも変わることなく、一つもぶれることなく、これからもこの理念一筋に、自分の人生をかけて貫き通す覚悟です。

「僕は、佐藤先生に、新しい生命を貰ったんです」
「こんな楽しい仕事は無いね。これは佐藤先生から貰った、僕の一生の仕事だ」
そう、嬉しそうに笑うSさんでした。



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