「素晴らしい」という美点発見は、明確に言えば真我ではないと、佐藤先生は言われます。
では、真我と「美点」を発見することの違いとは?
佐藤先生の講話から、今日は皆様にシェアしたいと思います。
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素晴らしいというのは、自分の価値観で見て「素晴らしい」と言っていますよね。
という事は、その価値観が無い人から見たら、素晴らしくないかもしれない。
自分に「素晴らしい」と見る目があれば、そう見えるという事です。
例えば宝石でも、見る目が無い人だったら、単なる石ころかもしれません。
しかし、宝石を見る目があったら「素晴らしい」と見えるわけです。
このように、人の価値観や見る目によっては、全部違うわけです。
同じものを見て、こちらの人は素晴らしいと思うけど、あちらの人はそうは思わない。
その意味で、素晴らしいとか素晴らしくないとか言うと、全然違うわけです。
私の言う「真我の素晴らしさ」は、みんな神という事です。
みんな完全であり、みんな神そのもの、みんな光そのものという事です。
だから、全部まとめて素晴らしいと言っているのです。
私は刑務所で講演をしたり、精神病院で講演をしたりします。
でも「みんな素晴らしい」という前提からやります。
そうするとその人たちが変わっていくのがわかります。
刑務所に入った人間が、何が素晴らしのか?
人間が思う「素晴らしさ」じゃない。
みんな神。
心臓が動いているじゃないか!
みんな生命が生きているじゃないか!
だから、みんな素晴らしいと言って、良いんです。
そこから出発すると、その人たちは意識が変わって改心する可能性もあるのです。
罪を犯した人は、そうだったからそうなったじゃなくて、ここからまた、生まれ変わるチャンスがいつでもある。
「真我の素晴らしい」というのは、みんな神として素晴らしい。
満月として素晴らしい!
みんな太陽として素晴らしい!
そうなったら、めくらめっぽうでもいいんです。