ど真ん中の話

※この内容は、研究所が立ち上がる前の研究員個人ブログのアーカイブです

「佐藤康行の真我に合わせるって、何故ですか?」
「真我はみんなの中にもあるのですよね」

「佐藤学長とは、アプローチも違いますが、他でも真我でやっているひと、いますよね」
「それを否定しろと、言うことですか?」

「それより、佐藤康行の真我しか真我じゃないみたいで、それって、危険じゃないですか?
宗教の教祖のようで・・・・、その狭い考え方は違うのではないですか?」

たまにそういうことを言う人に出会います。
私なりに、そこにお応えしてみたいと思います。

佐藤康行がある時、山のたとえで話してくれました。
「山の深いところに黄金が埋まっていたとします。
私は、その黄金を掘り当てたとします。」

「みなさんの山にも、深いところに黄金が埋まっています。
でも、その掘り当て方を知らないとします。」

「先に黄金を掘り当てた私は、その掘り当て方を、皆さんに伝授しようとしているのです。」

宗教は、「あなの山にも黄金が眠っている」までは言います。
しかし、そこで教えられた通り、掘れど掘れど、出てくるのは岩とガラクタばかりで、いつまでたっても黄金には辿り着きません。

教祖は、自分は掘り当てたと言います。
これが黄金だと、教祖の黄金を見せられます。
しかし、本物の黄金をまだ見たことの無い私たちには、その教祖が見せる黄金が、本物の黄金かどうかさえ、わからないのです。
わからないまま、自分の中にあると言われる、本物の黄金を見たことないまま、教祖の言う黄金を「これこそが本物なのだ」と、有難がって崇めることになります。

しかし、佐藤康行は、私たち自らが黄金を掘り当てる方法を教えてくれます。
自分の黄金を見て、大号泣した私たちに、その黄金を使えば、さらに黄金が増えること。
その黄金で周りを幸せにすると、さらに黄金が増えること。

そして、石ころだと思っていたゴミのようなものは、磨けばダイヤモンドだったということ。
さらには、自分という山には、さらにさらに素晴らしいものが眠っていること。
自分自身が望めば、それらはすべて手に入るということ。

佐藤康行は、今日も、奥深くにある、私たちの宝を、さらに自分の力で掘り当てることが出来る技術(技)を、もっと効率的に、もっと簡単に、もっと短時間で出来るように、研究をしてくれているのです。

「佐藤康行の真我に合わせる」ということは、佐藤康行が発明したその技術とその道具を。
未だかつてだれも見たこともない、使ったことも無い、技術と道具は、発明者の佐藤康行言う通りに使ってみる。
そうすると、確かに自分の深い部分にある、新たな宝を掘り当てることが出来るのです。

そのことを「佐藤が見たそのまま、そっくりそのままを見たい人は、どうか、私の旗のもとに、ついて来てください」と言っているのです。
それを、「佐藤康行の真我に合わせる」といっているのです。

どこをどう押しても、よくある教祖やスピリチャルの人とは真逆のことを言っているのです。

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