母は毎日の介護のかいがあって、声が出るようになり、多少の手足も動くようになりました。うなずいたり、首を振ったりして、意思表示をします。
母のろれつの回らない言葉も、毎日一緒にいる私には、何を言っているのかが良くわかります。私の言っていることも母は理解できるようでした。
回診医も回診看護士も「奇跡だ」と驚いて下さいました。
「家族の愛が何よりのリハビリになる」と言って、私を喜ばせてくれました。
そんな中、ある日を境に母は自分の年齢がどんどんさかのぼっていまい、若くなっていきました。
今日は「自分は二十歳だ」というかと思うと、次の日は「15歳で女学校にいってる」といいます。
そして自分の名前を旧姓で言い、父のことも私たちのことも全部忘れてしまったかのようでした。
そして、とうとう10歳くらいにまで戻ってしまったのです。
そうなると、私の事は母親だと思っているようで、「おっかさん、おっかさん」と呼びます。
私も母の名前を「○○ちゃん、おっかさんだよ」と呼びながら、頭をなぜたり、頬を寄せたり、ぎゅっと抱きしめたりしました。
小さい時に産みの母を無くした母は、寂しい幼少時を過ごしたらしく、私に盛んに甘えます。
「抱っこして」「着物を買って」「下駄を買いにいく」などと言います。
私はベットの母の横に入り込んで、抱きしめながら「○○ちゃん。おっかあは○○チャンが大好きだよ。」と頬ずりすると、本当に嬉しそうでした。
ある時には、私の手を取って、自分の頬に当てながら頬ずりし、ポロポロ涙を流しながら「おっかあ。寂しかった。寂しかった」と、泣きます。
よほど寂しい幼少期だったんでしょう。
こんなに寂しい子供時代を過ごしていただなんて、知りませんでした。
「母は本当に我慢して頑張ってきたんだな」と思い、切なくて涙が出ました。
母の我慢強さや頑張りはここから作られてきたんだと、初めて理解できました。
その中で、突然、気が狂ったように「早く早く!!下駄!赤い鼻緒の下駄!」と、私の服を引っ張って叫びます。
なにが起こったか、気が変になったのかと、私は母をなだめようとするのですが、同じ事を叫び続ける日が何日も続きました。
母の死後、この深い意味を母の実家のおばさんに教えてもらう事になるのですが、この時は、これがそんなに重要な事だと知らない私は、何が起きたのか理解できず、オロオロしながら、「○○ちゃん、大丈夫だよ。おっかさんはここにいるよ。下駄はあるよ。赤い鼻緒だよ」と、母を抱きしめ続けました。
後から聞いた母のこの悲しい物語は次のような事でした。
母は18歳で父と結婚し、19歳の時に長男(私たちの兄)を産んだそうです。
20歳の時に、乳飲み子の兄を連れて、実家へ里帰りをしたんだそうです。
母は久しぶりの実家に、その日は泊まるつもりでいたようです。
しかし、母と10歳位しか歳の違わない継母が、母に「今夜は泊まるように」と言ってくれなかったようでした。
気を使った父親も誰も母に泊まるよう言ってくれなかったので、いよいよ暗くなり、母は仕方なく乳飲み子の兄を抱いて帰ることにしたようです。
昔のことですから、歩いて帰るしかなく、家に帰っていく途中、急に雪が降り始めたといいます。吹雪になり、雪はどんどん積もっていったようでした。
母は歩く途中、雪に足を取られ、下駄の鼻緒が切れてしまい、身動きが取れなくなってしまったようです。
丁度、家と実家と親戚の家の中間点だったそうです。
どちらへ向かおうか、悩んだそうです。
でも母は、どうしても実家に戻ることが出来ず、下駄を脱いで、裸足で親戚のおじさんの家まで何とかたどり着いたそうです。
しかし、それが元で兄は肺炎を起こし、高熱を出してあっと言う間に死んでしまいました。
初めての子供を自分の不注意で亡くした母は、気が狂ったようになったといいます。
母は、死んだ子をおぶって、葬式を出すために父の実家まで泣きながら帰ったそうです。
何年も何年も母はその悲しいみが取れないでいたそうです。
私たちは一度もその悲しい話を母から聞かされたことがありません。
あまりに悲しすぎて、母はその話を私たちに出来なかったのでしょう。
母が何度も私の服を引っ張り、「おっかさん。早く早く、下駄!下駄!」と言ったのは、あの時、吹雪の中で、死んだ母の事をそう呼んだんでしょう。
その瞬間を思い出していたんでしょう。
母は死を前にして、人生で一番悲しかった出来事を再現し、そして、私を母と思い、助かったと思ったようでした。
まさに、人生を塗り直したのです。
それ経験依頼、母は大豹変してしまいます。