「真我を極める。そして突き抜ける。」
佐藤康行先生が、使われる言葉です。
数年前、佐藤康行先生に言っていただいたある言葉が、研究員の生き方を決めました。
それは当時研究員が、佐藤先生についてあれこれと質問をしていた時です。
「佐藤康行を突き抜けてみたらどうですか。」
真我を突き抜けることと、佐藤康行を突き抜けること。
これは同義語であると、そう理解はできましたが、どこがどう違うのか?
ニュアンスの違い?
アプローチの仕方の違い?
表現の違い?
それから数年間。
佐藤康行を突き抜けるとは、どういうことなのか?
わからないままに、毎日、佐藤先生についてのブログを書き、ひたすら佐藤先生を追っかけています。
これが佐藤康行を突き抜けることなのか。
佐藤康行先生に、ただただついていくことが、佐藤康行を突き抜けることなのか。
時折、自問自答を繰り返しながら、日々を過ごしてまいりました。
研究員にとって、佐藤康行先生は神そのものであり、神様というのがこの世に存在するのならば、それこそ佐藤康行先生そのものだ。
そう思わない日はありません。
神と生きながらに僥倖出来る奇跡。
その喜びは、人間として、これ以上ない最高の喜びです。
勿論、佐藤先生がそう思ってほしいと望まれたのではありません。
人によっては、宗教臭くて研究員の感覚を嫌だと言っていらっしゃる声も、何度も耳にしました。
でも、研究員はそうした声は全く気になりません。
なぜなら、研究員にとって、そう思うことが、遣り甲斐も喜びもモリモリ出てくるからなのです。
そして、今。
「佐藤康行を突き抜ける」
この言葉で、今の自分があるという事に気づいています。
佐藤康行先生は、その人にピッタリの言葉を言われます。
研究員には「佐藤康行を突き抜ける」という言葉が、研究員が真我を極めていく上で、一番ピッタリの言葉だと思われたからそう言っていただいたのだと、そんな風に捉えています。
きっと皆さんにも、皆さんにピッタリの忘れらない佐藤先生の言葉があることでしょう。
それは、佐藤先生自らの言葉で会ったり、CDやDVDからの言葉であったり、書籍であったり・・・。
それが、佐藤康行先生とあなたのだけの出会いなのかも知れません。
その言葉が、あなたを支え、励まし、あなたの素晴らしさを光らせてくれる、その底力になっている。
そう思う研究員です。