研究員の弟子論を、一昨日、昨日と書いています。

 

イエスキリストとその弟子を通して、見えてくる世界があります。
それは、師とは、自分の肉体生命よりも大切なものであるという事です。

師と弟子とは、肉体生命を越したものであるという事です。
魂の師と弟子であるという事です。

 

すでに、佐藤康行は、私たちが真我に目覚める事を、自分の肉体生命より大切にしてくれています。

それは、自身が13年前に倒れたとき、肉体の死を覚悟したとき、そう自覚したと言っています。
「自分の肉体の命より、真我を人類に拡げることのほうが大切だと、そう自覚した」という話は、すでに皆さんお聞きの事と思います。

これは、言葉を変えれば、自分の肉体生命より、愛する世界中の弟子たちが、本当の自分の素晴らしさで生き切る事のほうが大切だと、そう言っている事と変りありません。

 

弟子にとって、これほどの幸せ。
これほどの感動はあるでしょうか!!

 

自分の肉体生命より大切だと思える、本当の師に、肉体を持って出会えるという事が、どれほど幸せなことか!
そして、本当の師と共に、肉体を持って生きているという事の幸せがどれほどのものであるのか!

 

師が見せてくれる、真我の素晴らしい景色を見る。
師と共に、自分も、自分の愛する多くの人が、最も素晴らしい自分に感動し涙する景色を見る。

そして、弟子としての最高の幸せは、師の価値がどれほどのものであるのかを証明できることです。

具体的に言うなら、佐藤康行を「ただの凄いセミナーを編み出した人物」だけで終わらせないこと。
佐藤康行の価値を世界中に伝えること。

たとえ、佐藤康行が囚われたとしても(佐藤康行の場合、絶対にあり得ないことですが)
喜んで、一緒に囚われ、そこで出会う人に、佐藤康行と共に真我で最高の幸せを実感してもらうこと。

 

例え佐藤康行との物理的距離が遠くても、例えほとんど、肉体佐藤康行に会うことが出来なくても、魂はいつも佐藤康行と共にいること。
常に佐藤康行に意識を向け続けるという事。

 

親鸞のように、一度「この人!」
そう決めたら、例え地獄であろうが、なんであろうがついていく。

それが弟子の醍醐味ともいえるものだと、そのように、研究員は思っているのです。

 

今、イエスキリストの弟子たちが、時間を越え、歴史の向こうから協力してくれているとしたら、そんな私たちの姿に、涙を流して、喜んで協力してくれているに違いない。

そのように思っている研究員です。