佐藤康行は「師と弟子」という言葉は使いません。
いつも「私と皆さんとは同じです」と、そういいます。
しかし「自分は佐藤先生の弟子だ。」そう思っている人は、たぶん、研究員だけではないと思います。
研究員は佐藤康行の弟子だ。
そう、勝手に思っています。
今日は、佐藤康行の弟子だと勝手に思っている、研究員の弟子論を書きたいと思っています。
あくまでも勝手に思っているだけなので、その点をご理解の上、お読みいただけたらと思っています。
レオナルドダビンチの「最後の晩餐」という絵があります。
イエスが逮捕される前の晩の、弟子たちとの食事風景を描いた絵です。
2000年以上に渡り、人類の精神の支柱となってきているイエスキリスト
しかし、その死は、人間としては悲惨と思われる死に方でした。
ユダの裏切りに始まり、イエスの逮捕で、弟子全員が恐怖のため、イエスを見捨てて逃げてしまいました。
弟子の中には、逮捕されたイエスの弟子ではないかと問われ「わたしはその人を知らない」という弟子もいました。
結果、イエスは茨の冠をかぶせられ、十字架を背負わされ、罪人として、多くの民衆から石を投げられ、人間としては悲惨とも言うべき死に方をします。
研究員はこの話を知ったときから、その事がずっと心の中に引っかかっていました。
なぜ、ユダはイエスを裏切ったのだろうか・・・?
自分がもしイエスの弟子ならどうしただろうか・・・・?
一方で、研究員は昔からこんな風にも思っていました。
イエスが生まれたその時に、なぜ自分は生まれることが出来なかったのか!
釈迦が生まれたとき、なぜ、その時に生まれることが出来なかったのか!
昔から、そう思っていた研究員にとっては、イエスの弟子たちの行動は、自分の中でのテーマにもなっていました。
研究員は、人生のなかで、ずーと「本物の人」を求めていました。
「どこかにきっと、本物の人がいるに違いない」
そう思って、本物の人を探してきた人生でした。
「本物はいない」そう思って、あきらめかけていた時に、出会えたのが佐藤康行でした。
さて、話が長くなりましたね。
続きは明日となります。
興味がある方は、明日も是非お読みになってください。